鹿島茂氏講演会「画家たちの愛した19世紀末パリの風俗」に行ってきました。三菱一号館美術館で開催中の「三菱一号館美術館 名品選2013 ― 近代への眼差し 印象派と世紀末美術」展のイベントです。19世紀末のパリと言えば、パリが華やかに反映した時代として「ベル・エポック」と呼ばれています。
映画「ミッドナイトインパリ」でも、主人公は1920年代の「レ・ザネ・フォル(狂乱の時代)」のパリに生まれていたら!!と言うのに、その時代に生きるアリアドネは19世紀末に生きたかったと言う、あの「ベル・エポック」。私もこの時代と、この時代の美術や風俗が大好きです。
でも、なぜ19世紀末のパリがそんなに大輪の花のように華やかに繁栄したのか、その背景をよく知りません。鹿島先生の講演会は何度か聞いたことがありますが、きっとその疑問を解いてくれるだろうとワクワクして、陽のとっぷりと暮れた丸の内へ向かいました。
【モンマルトルが脚光を浴びた背景】
1860年、ナポレオン3世の経済政策による好景気のもと、セーヌ県知事オスマン男爵が、人口増に対応する目的でパリ大改造計画に着手した。
パリの街は建築ラッシュに。石工など労働者が、フランスの地方、ベルギー、イタリアなどからパリへ集まってきた。労働者のための安宿が必要となり、市街などに違法建築ができ、そこに住むようになる。この改造によりパリの市域は2倍となり、それまで郊外だった18区モンマルトルに脚光が当たるようになった。モンマルトルは地価が安かったので、画家たちが集まり住みつくようになった。ピガール広場には、カフェ「ラ・モール」や「ヌーベル・アテネ」ができ、画家、ジャーナリスト、詩人などのたまり場に。ヌーヴェル・アテネにはモデルが集まるようになり、モデル市場になった。カフェのほか、キャバレー、ミュージックホールが繁栄し、芸術、印刷、ジャーナリズムが発展した。
アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック《個室にて(ラ・モールにて)》
1895年 油彩・カンヴァス 54.5x45cm
ロンドン、コートールド美術研究所
【ジャーナリストと芸術家たちが結びついたわけ】
キャバレーやミュージックホールなどは、今でいうプレス誌のような新聞を発行していた。「シャ・ノワール」がその先駆け。ジャーナリストがモンマルトルに集まるように。それまでは、ジャーナリスト達はセーヌ川の対岸カルチェ・ラタンにいて、「ヒュミスト(冗談好き)」「デ・ザンコエラン(支離滅裂な人々)」などと呼ばれていた。
「シャ・ノワール」の店主ロドルフ・サリスは、開店にあたって、詩人のエミール・グドーにコンセプトを相談。グドーは、今のキャバレーなどの出し物は全然面白くない、俺たちの喋りのほうがずっと面白いから、客席が主体となるような店をやったらどうかと助言する。ロシュロワールにキャバレー「シャ・ノワール」を開店、大ヒットした。宣伝のために絵入り新聞を発行していた。
テオフィル・アレクサンドル・スタンラン
《高名な「シャ・ノワール」一座近日来演のポスター》
1896年、北海道立帯広美術館
歌手アリスティド・ブリュアンは下水道人夫の恰好をして、下層階級の俗語ばかりのシャンソンを歌っていた。ブリュアンはやがて自ら「ル・ミルリトン」を開業した。「ル・ミルリトン」でも新聞が発行された。ロートレックが「トレクロー」名義で絵を描いていた。
エリック・サティがピアノを弾き、アンリ・リヴィエールによる絵で影絵芝居を上演したりしていた。こうして、キャバレーで歌や芝居が上演されたり、絵入り新聞による需要が高くなり、ジャーナリスト、ライター、作詞家がモンマルトルに集まりだした。
このころ、ゼネフェルダーがリトグラフを発明。ポスターや新聞に活用された。ロートレックは、色や構図の制約を逆手にとり、新しい技法を生んだ。写真技術が登場するまで、リトグラフによるプリント芸術が開花した。
【花開くキャバレー、ミュージックホール文化】
「シャ・ノワール」に代表されるCafé Concertは、劇場とは違って、建物も椅子も粗末で、歌が好きな人が客層の中心。出し物はバラエティー中心で、いろいろな芸人が出演していた。
マネの絵で有名な「フォリー・ベルジェール」のようなミュージックホールは、もっと劇場に近いようなイメージで、客席が広く、娼婦が通路を歩きまわっていた。バラエティ・ショー、曲芸が中心だった。トランス・アトランティック、大西洋航路の発展もあり、アメリカから芸人がたくさんやってていた。日本の芸人もいたらしい。
エドゥアール・マネ《フォリー・ベルジェールのバー》
1882年 油彩 ロンドン、コートールド美術研究所
ムーラン・ド・ラ・ギャレットは健全なダンスホールだったが、「健全ではない」とのコンセプトのもと、ジドレールが「ムーラン・ルージュ」を開店した。ホール側が、プロではなく、ダンスのうまい普通の勤め人を用意し、ホールで躍らせた。バブル時代の日本のディスコみたいなイメージ。例えば、「骨なしバランタン」の異名をとったバランタン・デゾセなど。
カドリール・ナチュラリストを躍らせていた。当時の「ナチュラル」は、「エロい」の意味。エロいダンスばかりしている不健全なダンスホールということ。象の張りぼてがある中庭に娼婦を待たせておいた。娼婦は出入り自由にさせていた。モーパッサンの小説「ベラミ」のような感じ。
【パリのレズビアン文化】
モンパルナスには雑誌文化が生まれなかったが、モンマルトルでは集団芸術が記録に残った。カフェ「ラ・モール」には、クーリエ・フランセの編集の人々が集まっていた。
一方、レズビアンの溜まり場でもあった。詩人であり美術収集家でもあるガートルード・スタイン、作家のナタリー・バーネイはじめ、アメリカの大金持ちのレズビアンが、噂を聞いてパリへやってきた。パリのレズビアン文化は1930年代まで栄えた。
レズビエンヌのうち、アドリエンヌ・モニエや、シルヴィア・ビーチなどは貸本屋を営んでいた。シルヴィア・ビーチはシェイクスピア&カンパニー書店を開き、、ジェイムズ・ジョイスを発掘し「ユリシーズ」を出版した。
ジェイムズ・ジョイス「ユリシーズ」初版本。挿絵はアンリ・マティス。
ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、ガートルード・スタインなどがこの書店で多くの時を過ごした。当時のパリのレズビアン文化は、モダニズム文学の中心地でもあった。
現在のシェイクスピア&カンパニー書店
モンマルトルが文化の中心地となっていることが世界中に噂となり、日本からも東京美術学校(芸大の前身)の岩村透が渡仏、以降も藤田嗣治などが渡仏した。
【19世紀美術と娼婦たち】
ヌーベル・アテネがあった辺りは、娼婦街パサージュに近かったため、娼婦や妾が住む場所でもあった。
当時、新築の建物は、地面から上がってきた瘴気が壁から出てくと考えられていたため、家賃が安かった。腰板とタペストリーで壁を隠し、瘴気を避けていたが、完全に乾くまでは、娼婦に安い値段で部屋を貸していた。
こうした娼婦たちを画家たちはスケッチしていた。マネの絵に出てくる女、二人連れだったら間違いなく娼婦。美術の下部構造が大事。
19世紀は物欲の時代であった。
夫の給料以外に金が手に入らず、若い女は修道院に入れられ、出たらすぐ結婚するパターン。若い女が働いてお金を得る手段が無い。お金を得てほしいものを手に入れようとしたら、娼婦になる以外に方法はなかった。
なんとなく、絵画や映画で細切れにしか理解できていなかった当時のパリの状況がよくわかる講演会でした。ロートレックや、印象派、エコール・ド・パリの画家たちの絵を見る目がこれから少し変わりそうです。